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リビングと化したBくんの部屋

2020年3月22日「日曜日」更新の日記

2020-03-22の日記のIMAGE
話はここで終わりません。Bくんのお母さんの徹底しているのは、むしろここからです。なんと、ちゃぶ台に飽き足らず、テレビ、ラジカセと、リビングにあったさまざまなモノを子ども部屋に持ち込み始め、食事以外のほとんどのときを、こちらで過ごすようになったのです。子どものいないときですら、子ども部屋でまったりしているというのですから、徹底していますね。そうなると、お父さんの行動だって変わります。ちょっと遅めに帰ったお父さんは2階のリビングでお母さん相手に夕食と晩酌を済ませると、すでに子ども部屋にいるBくんの勉強が終わったころを見計らって、会社の近所の有名ケーキ屋さんで買ってきたシュークリームの箱を持って、子ども部屋にお母さんと参上します。「おい、B、勉強、終わったか?」「うん、だいたい」「おし、じゃあ、デザートだ」「わあっ、シュークリーム!」「うまいんだぞ、この店のシュークリーム」南向きの窓から外の雲や鳥を明しめて気分転換。後方のお母さんはちゃぶ台で二テレビを見ながらお茶とおせんべいです.かくしてBくん宅では、いつのまにやら子ども部屋が家族団らんの場になったというわけです。2階にある本来のリビングはただ食事をする場所となり、リビングルームとしての地位を3階の子ども部屋に譲り渡したのでした。 インテリアにお金はかけられないとはじめたことだったが、手作りしている過程が、本当に楽しかった。また、広くて日のよく当たるベランダが手に入ったので、ベランダでの楽しみも増えた。「食べ物を干してみたらどうだろう?」ぽかぽかの日差しを浴びながら洗濯物を干しているとき、そうひらめいた。食べ切れない物を保存する方法としても有効だ。まず、雑貨屋さんで棚になっているカゴを買ってきた。まわりも網で覆われているため、ハエなどの虫を避けられるというものだ。それから、スーパーに行くと、ちょうどおいしそうな生しいたけが1盛り200円と安かったので買ってきて、さっそくカゴにしいたけを並べて干してみる。「わあ、おいしそうに乾いてる!」数日後、ちゃんと干ししいたけができていた。ほかにもいろいろ試してみた。大根の皮を細く切って切り干し大根を作ったり、断やごはんを干して乾燥させたりした。干した餅を油で揚げると、手作りのかき餅になるし、ごはんを干して油で揚げ、五目あんをかけると中華風のおこげ料理になる。アジやサバが安いときには、魚の干物を作った。魚は背開きにして塩水に一晩漬け、表面が乾くまで干す。魚の干物が食べ切れないときは、冷凍保存すればいい。ベランダ菜園も本格的にはじめた。まず、アパート時代から育てていたアロエの鉢植えを説く。「わたしって、すぐ花や葉を枯らせてしまって」というような人でも、アロエなら簡単に育てることができる。繁殖力も強くて、どんどん増える植物だ。わたしはアロエをいろいろ活用している。皮をむいて実をシロップ激けにし、ヨーグルトに入れて食べたり、便秘のときなどはそのままかじったりする。また、やけどや切り傷には果肉から出る汁を付けると、すぐ治ってくれる。 ちょうどそのころは、コンビニの店長の仕事も忙しく、引き受けてしまった節約についての本の原稿の締め切りも迫っていた。寝る暇もほとんどないくらい忙しい。日中は仕事、夜は原稿書きと提案書作り。やっとひと区切りつくころ、空は白々としはじめる......。2、3時間眠っただけで、すぐに起きて仕事へ。そんな毎日だった。「これも今だけ」疲れた自分を励ましながら、原稿と提案書を何とか作り上げた。そして、めでたく節約の本も出版され、学校も無事卒業できた。しかし、卒業できたからといって、資格が自動的にもらえるわけではない。試験に合格しないとダメなのだ。試験は3カ月後にあるし、宅建の試験も2カ月後に迫っている。宅建はほとんどが法律の勉強で、権利関係の民法、宅建業法、法令上の制限など、細かく勉強しなければならない。2つの資格に挑戦しようと意気込んだのはよかったが、仕事と2つの勉強を両立するのはとても難しい。それに、2つの資格とも試験範囲が広く、日常生活では聞いたこともないような内容だ。「わけがわかんない」そんな状況だった。結局、2つとも、試験に失敗してしまった。宅建は1年に1回、ファイナンシャルは1年に4回試験がある。次のファイナンシャルプランナーの試験を見送って、2回目の試験でようやく合格したのだが、結局、1年以上かかってしまったことになる。ファイナンシャルプランナーは上級もあるので、上級を目指してこれからも続けようと思う。宅建も、受かるまであきらめずにがんばるつもりだ。「なぜ資格にこだわるのか?」そう友だちに聞かれることがあるが、考えてみると、自分に自信がないから。それに、資格がなければできない仕事もあるし、就職口も見つかりやすくなると考えたからだ。しかも、キャリアを積めば独立も可能だ。「世の中には、知らずに損をしていることが多い」そんなことを少しでも減らすために、つねに勉強が必要だと思う。これも、資格にこだわる理由だった。 お兄ちゃんらしい男の子が下の弟や妹を怒鳴る声が聞こえる。たたく音も聞こえた。次に、やられた弟や妹が大声でわんわん泣きはじめる。しばらくして、泣きやまない子どもたちを母親もしくは父親が叱る声。「オゥラー。るっせんだよー」母親や父親が大声で怒ると、そのあとはもうたいへんだった。子ども全員で泣きはじめる。そしてそこに、生まれたばかりらしい赤ちゃんの泣き声。早朝だろうが夜中だろうが、お構いなしに泣く。そんなことが毎日のように繰り返され、本当にイライラしていた。アパートから抜け出したい理由は、まだあった。日当たりが悪いことだ。物件を見たのが夕方の暗くなったころだったから、チェックを怠っていたのだが、日が当たらないせいで、冬の寒さはかなりきびしい。それに、わたしの部屋は1階だったのだが、掃除が楽でいいなと思っていたフローリングは、実はただのコンクリートに木目調のビニールクロスを貼っただけのもの。冬は下に氷でも置いてあるかのような冷たさで、本当に困った。さらに、風通しもよくなかった。クローゼットの裏側にはトイレがあったから、クローゼットに入れていた革製品はカビに侵され、全滅してしまった。除湿剤を置いてみたが、ほとんど効果はない。お風呂場が近かったせいか、靴箱も被害に迎い、革靴はほとんどすべてカビでダメになってしまった。「何とか湿気をよび込まないようにしなきゃ!」そう思って、お風呂の換気扇を回し続けていたら、今度は換気扇が壊れてしまった。直してもらおうと不動産屋に電話をしたが、まったく聞き入れてくれない。「1日も早くここから出たい」だんだん不満は募っていく。しかし、引っ越すとなると、当然今よりも広い物件がよくなってくるだろう。そうなると、家賃も高くなってしまう。騒音で悩んでいたから、もうアパートはこりごりだった。とするとマンションだ。マンションタイプの賃貸で1Kくらいの物件だとしたら、8万円くらいは覚悟しなければならない。敷金や礼金、仲介手数料を払っていたら、最低でも10万円は必要だ。それに、引っ越し代や雑費などで8万円は軽く飛んでいってしまうだろう。そんなお金はもちろんない。「どうすればいいんだろう?」考えても考えても答えは見つからなかった。 ここに転居してほんとうによかった」と話し、その表情は明るくキラキラ輝いて見えた。母親高子さんの日課は、朝一〇時から午後七時までデイサービスセンターで、数人の入居者の人たちと歌を合唱したり、歌に合わせて手足を動かす歌体操をしたり、輪投げやボール投げなど、遊びを併せて軽いトレーニングをする。昼食や夕食は一階の喫茶店でとれるようになっている。ただし、高子さんは偏食がちで、好きなとろろそばやうどんしか食べないようだ。だから、忍さんはなるべく、母親と夕食をいっしょに食べるように努めているという。一方、高子さんのリハビリは週二回で、専門の病院に通い、仕事の都合で忍さんが行けないときはデイサービスセンターのスタッフが交替で付き添ってくれる。はじめは手の訓練をする作業療法と歩くための理学療法の二つを一日でやっていたが、半年後からは作業療法と理学療法が別々の日となり、週二回通わなくてはならなくなった。正直いって往復のタクシー代と付き添い料の個人負担は大きく、なんとか一日で作業療法と理学療法が受けられるような、患者とその家族の側に立った医療政策ができないか、心から願っている。リハビリの効果をあげるために、鍼灸治療をしたり、気功も取りいれたり、トイレの時間を活用して発声練習や指で数を数える練習をさせたり、忍さんは教育ママになったつもりで、母親のリハビリ訓練にいまも励んでいる。こうしたリハビリが功を奏して、高子さんは驚異的なまでに手足が動きだし、少しではあるが自力で歩ける可能性が出てきている。忍さんにかすかながら、期待とあかりが見えはじめた。・シニアハウスに移ってほんとうによかった。ここではいろんな人たちとふれあい、互いに助けあう態勢が整っており、寝たきりにならないように、デイサービスセンターがあることがなによりいい。「思いきって、マンションを売り、母親とふれあいのできるところに住み、安心して仕事が続けられることはこの上ない幸せ、母は私の人生そのものだから。終いの住みかを探し当てることのできた私たちは恵まれている。母の顔に笑顔が戻り、手を引いて近くまで買物に出かけられる日を待ちつづけている」と忍さんはいう。 退職と鉄のガン死
いま六二歳の有馬恒久さんは、三五年勤めていた化粧品会社を定年二年前にきっぱりと辞めた。五八歳のときだった。その当時、有馬さんは人生の選択を迫られていた。ひとつはその会社で六〇歳の定年まであと二年、非常勤で働くか、もうひとつは五八歳で定年前に辞めるかであった。有馬さんは後者を選んだ。退職金と企業年金も全部受けとり、さっぱりとした気分で会社との縁を切った。その後、一年間、請われるままに新しい会社で働いてみたが、その仕事が自分の性格に合わないと判断し、あっさりとその会社も辞めた。ちょうどその直後、妻が子宮ガンと診断され、それも末期と医師から宣告された。これから二人で旅行をしたり、おいしいものを食べに行ったり、観劇を楽しもうと思っていた矢先の出来事だっただけに、有馬さんの衝撃は大きかった。ひとまず、妻の看病を最優先にと決意、全力で病床の妻を支える日々が続いた。しかし、半年後、妻は看病の甲斐も空しく、力つき旅立ってしまった。このときの悲しみはたとえようがなく、茫然自失、虚脱状態が続いた。が、六ヵ月間、妻と深い闘病時間を、二人で過ごした自宅でもてたことで、有馬さんの心に悔いは残らなかった。一軒家で始まった妻のいない男のひとり暮らしを淋しくないといえばウソになる。長男はすでに結婚して別に居を構えて独立しており、次男は独身でも勤務先の大阪に住んでいる。ひとりになると一軒家は広く淋しすぎた。 ●ヒント6老後の生活費
――定年後を心配なく、楽しく過ごすために定年後にはいったいいくらぐらいのお金があればいいのか――五〇代からは定年後の生活費も考えておかなければいけない。生活費は生活設計、ライフスタイルによって個人差が出てきて一概にいくらということはいえない。一般には夫婦二人で持ち家があれば三〇万円といわれているが、公的に政府が提案しているのは一五万七〇〇〇円ぐらいであって、約半額しかない。「公的年金には厚生年金、共済組合年金、国民年金、厚生年金と国民年金を合わせた通算年金(厚生年金と途中退職で国民年金に移り変わって返算した年金)などがあるが、厚生年金を三五年間支払って収入の六〇パーセントが目安で、平均すると一ヵ月二一万五〇〇〇円と現在はなっている。夫婦二人三〇万円ということになると、公助だけでは到底食べていかれないことになる。したがって公助プラス自助プラス共助の生活費を考えなければいけない。自助には個人年金(積み立て方式と一時払い方式とに分かれる)や一時払い養老保険など、各種保険と貯蓄の金利もあるが、なにはともあれ、なにがしかの自助が入るように考慮しておくことが必要。このことを五〇代に入ったら、まずきちんと把握し、一〇年間でそのための準備を急がなければいけない。現在のように、金利が低いと、金利はあてにできないから、個人年金をいろいろ調べ、五〇代ならまだ積み立ても可能なので、早目に準備することだ。
●ヒント7
心身の健康―――心と体の健康に自信をつけるためにゆとりある生活が送れるだけの収入と経済の準備ができたら、心身ともに健康であること、毎日の食生活を楽しむこと、家の中に自分の役割をもつこと、役割をもったらそれを生きがいとすること、家の中でできる健康法を見つけることなど、五〇代は心身の健康への助走を心がけなければならない。とくに、サラリーマンは会社一辺倒になりがちなので、自分の役割を家庭の中にもつことを早くしないといけない。それは掃除でも、片づけでもなんでもよい。また、食生活には十分気をつけ、手づくりで栄養のバランスがとれた家庭料理で健康を維持することが望まれる。そして、テレビを見ながらの手足の運動、ヨーガや屈伸運動、浴室でのシャワーパッティングなど、家の中でできる運動を習慣づけたい。

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