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卓球台は勉強机

2020年3月18日「水曜日」更新の日記

2020-03-18の日記のIMAGE
今日はAくん大好物のハンバーグ・ステーキにほうれん草のバターソテーです。キッチンの前のダイニングスペースは香辛料置き場になっています。卓球台は、みんなでご飯を食べるダイニングテーブルであり、そしてAくんがお父さんやお母さんと会話をかわしながら、お勉強をする勉強机でもあるわけです。昼間、卓球台の主役はお母さんです。ご近所の方をお招きしてのティータイム。お友だちを招いた最初のころは「なんでテーブルじゃなくて、卓球台なの?」と不思議がられましたが、いまや、Aくん家の卓球台"は近所でもすっかり有名になり、お母さんたちの憩いの場になりました。夕方になって、Aくんが地元の公立小学校から帰ってくるころ、卓球台は初めてその本来の機能を発揮し始めます。Aくんのクラスメートたちがランドセルを背負ったまま、Aくんといっしょにおうちに入ってきて、卓球台のあるリビングに直行です。「ただいま!」Aくんの声でキッチンにいたお母さんが顔を出します。「あら、おかえりなさい」「おばさん、こんにちは!」クラスメートがお母さんにあいさつします。「あらあら、今日はお友だち、多いのね」かくして、塾のない日、Aくんは友だちと卓球やトランプをして遊ぶというわけです。そして夕食の時間になると、「すいません。うちの息子、お宅にお邪魔していません?」とクラスメートのお母さんが迎えに来たりするのも、すっかり日常になりました。かくして、Aくん宅では、家族はもちろん近所のお友だちの家にとって、この卓球台が関所"となり、家族やお友だち、そしてご近所とのコミュニケーションの大切な場となったわけです。 登記申請をしてから、約半年もかかった計算になる。そして、仕事のほうはというと、だんだんコンビニの店長業務が重荷になりはじめていた。店長の仕事は、想像以上にハードだ。一つひとつの仕事はそんなにたいへんではないし、単純作業だったのだが、店の長となれば責任も大きい。一つのミスが重大な結果をもたらすこともあった。アルバイトに任せた仕事でも、何かがあったときの責任はすべて自分にある。しかも、「節約家」として、取材や原稿執筆、テレビ出演などの仕事が少しずつ入りはじめたせいで、コンビニの仕事がおろそかになりがちだった。マンションの手続きや引っ越しも重なって、出勤時間もかなり減ってしまっていた。そんな中で、私は選択を迫られることになる。「このまま両立させていくか、それともどちらか片方にしぼって生活していくか」何日も悩んだ。休みがちだったわたしを支えてくれたのはアルバイトのみんなだったから、感謝の気持ちと申し訳ないと思う気持ちで心の中はぐちゃぐちゃだった。考えた末に、節約家としてフリーランスで働くことに決めた。一人で動いていたほうが気が楽だったし、節約の話をしていたほうが「本業」というような感じがする。それに、コンビニは1時間365日の商売だから、店長の休みが多すぎればアルバイトにもいい影響を与えるはずがない。幸い、アルバイトの中で店長をしてくれるという人がすぐに見つかり、早々に辞めることができた。「これで節約家として、自由に活動ができる」そんな、晴れ晴れした気持ちとともに、「仕事を辞めて、本当にローンを払っていけるだろうか」という不安もいっぱいだった。このとき、わたしは27歳になろうとしていた。 当初、1年で100万円を貯めるつもりで、10年後には1000万円を目標に日々節約生活を送ってきた。ところが、ある日改めて多方面に散らばっている貯金をまとめてみると、何と170万円にもなっていた。「しかも、あと数日でボーナスが入る!」そう気づいて喜んだ。場合によっては200万円の大台に乗る可能性も出てくる。「やればできる」何ともいえない感動に、ジーンとしてくる。「もしもっと早くはじめていたらどうなったのだろう・・・同時にそんな欲を出して悔しがっていた。200万円を貯めるということは、月々に分けてみると、単純に言えば毎月6万円を貯金していたことと同じ。ボーナスもほとんどすべて貯金に回していたことが、200万円への近道になったといえるであろう。つくづく考えた。「人間、変われば変わる」ほんの1年前はほとんど貯金もできずに苦しんでいたとは思えないほどだ。自分でもびっくりしていた。わたしの人生、無駄遣いばっかりだったのかなあ。生活習慣を変えるだけで、こんなにもお金は残るものなのだろうか。お金は知らないうちにどんどん流れていってしまうけれど、きちんと管理をしていれば、こんなにも簡単にお金がどんどん貯まっていくものだったんだ。お金の価値観が変わる瞬間でもあった。「世の中、お金で動いている」当たり前なことだけど、今の時代、何をするにもお金が必要だ。自分で簡単にできることでも、当たり前のようにサービスが売られている。そして、人は何の疑いもなくサービスを買っている。怖いことに、その感覚がだんだん麻痺していき、気づけば知らず知らずのうちに、どんどんお金を使ってしまっているのだ。こんな状況に流されてしまうと、自分が何にお金を使ったかも把握できない。企業は人からお金を集めるために、あの手この手で攻撃をしかけてくるから、意識しないまま流れに乗せられ、お金を吸い取られてしまう。節約は、そんなふうに流されてしまう自分を取り戻すきっかけになってくれる。でも一方で、節約に対して、あまりいいイメージを持っていない人もいる。「あんたみたいに、お金の流れを止める人がいるから、景気は回復しないんだよ」友だちからも、こんなふうに言われた。「お金が流れなければ、経済は発展しないんだ」と。確かにその説も、一理あると思う。でも、はたしてそれですべて正しいのだろうか。また、「節約=ケチ」のイメージもある。実際、わたしを変人のように見る人もいた。世間の目は何だか冷たかった。でも、自分自身、間違ったことをしているつもりはまったくなく、だれに迷惑をかけた覚えもない。「そんなにお金を貯めてどうすんの?」こんなふうに言われることもあった。しかし、だからといって、節約をやめるつもりは毛頭なかった。それに、節約をしなければ、生活できなくなってしまう。「こんなことくらいで、夢は捨てられない」こう思って立ち直ろうとした。 仕事も決まらないまま上京する娘を心配しない親はいない。そんな心配をよそに、わたしは何とかなるさと実家をあとにした。専門学校を卒業して就職した最初の会社を半年で辞めてしまい、「そろそろ何とかしなければ・・・」と考えていた23歳のときのことだった。そのとき手元にあったお金は、全部で約30万円。実家の家業を手伝ってもらったお金とパチンコで勝って貯めていたお金だ。住むアパートは事前に友だちと見に行き、勝手に決めていた。場所は都内へ電車で30分くらいの住宅街。駅からは徒歩20分と遠かったが、自転車を使えばいいと目をつむることにした。6畳のワンルームでバス、トイレ別ロフト付き。そして、エアコンやミニ冷蔵庫、ガスコンロ、おまけに洗濯機も付いている。しかも、入居当時、築3年の築浅物件。家賃も管理費込みで月5万円と、お手ごろ価格だった。敷金1カ月分、礼金1カ月分、仲介手数料1カ月分、前家賃1カ月分の、計30万円で新生活のステージがはじまった。何にもないまっさらな部屋に荷物が運び込まれる。当時、とりあえずふつうの生活ができる最低限の荷物しかなかった。そして、アパートを借りるために使った20万円と、引っ越し代、あとは家具や当面の生活費で30万円はすぐに消えてしまった。殺風景な部屋の中、カーテンを買う余裕すらなく、入居当初は新聞紙を窓全面に貼って目隠しをしていた。4月のはじめとはいえ、まだ寒さが残る部屋の中で綿入れを着て寝ていると、近所の子どもが、新聞紙の隙間からのぞいてくる。「あれっ?お姉ちゃんが寝てるよ!」大声で友だちに叫んでいる。窓全面に新聞を貼っているので、不審に思っていたのだろう。それ以来、ときどき子どもたちがやってきては、おもちゃのピストルで「BB弾」というプラスチックの弾を撃ち込むようになった。しばらくそんなことが続き、友だちからカーテンのお古をもらえることになった。喜んで付けてみると、丈が30センチくらい短い。「ぜいたくは言えない。今のわたしにはお似合いかも・・・.」こう思いながら、しばらくそのカーテンをぼんやり眺めていた。生活するための家財道具は少しずつ揃っていったが、依然無職のまま。人と話さない日が続いて、だんだん孤独を感じるようになった。 母を寝たきりにだけはしたくない
四六歳の山本忍さんが大阪の心斎橋に住宅・街づくりの企画専門会社をおこして四年。仕事がやっと軌道にのってきたとき、母親の高子さん(八三歳)がクモ膜下出血で倒れた。二年前のことであった。クモ膜下出血の症状は五段階に分かれているが、一~二段階の初期であった。手術するか、このまま安静にしておくか迷ったあげく、手術に踏みきることにした。忍さんはシングルであり、母娘二人、誰にも相談することもできず、ともあれ、医師の言葉を信じて、手術に臨んだ。手術はひとまず成功した。しかし、よかったと安堵する間もなく、二週間後のある朝、朝食を食べていた母親の顔の左半面が急にゆるむと同時に、口がダラリとたれ、口の中のものがこぼれた。結果は脳梗塞、左半身麻痺だった。運動神経に命令する脳がやられたので、歩くことは、あきらめなければならなかった。忍さんは大きなショックを受け、しばらく放心状態が続いた。元秘書だった母親には、会社を設立してからは経営上のことを相談したり、資金不足方のときには助けてもらったり、それ以前に一六年間フリーライターの仕事をしていたときは、自宅を仕事場にしていたので母に秘書的なことをしてもらうなど、全面的にバックアップしてもらってきたので、なにがなんでも、今度は自分が母親をみなければいけないと、心に誓った。なにがなんでも、歩けるようにしてみせると必死であった。母を寝たきり老人にはしたくなかった。入院は一ヵ月の予定であったが、脳梗塞で動かなくなった左手足のリハビリの治療を専門家に依頼するため、五ヵ月間延長した。完全看護であったが、念のために昼間は家政婦さんを頼み、夜は忍さんが宿泊して介護することにした。 仕事の見直し、暮らしの見直し
コーディネーターの加藤タキさんは原宿で会社を一八年間続けてきた。そのタキさん が、オフィスを住居と同じところに移した。ホームオフィスにしての再出発だ。この考えに到達するにはいくつかの理由があった。ひとつは息子さんが小学校へ入学 し、母親として心の通じあう送り迎えをしてやりたいと強く思うようになったこと。タキさんの小学校のころも母親の加藤シツエさんは政治活動で留守がちだったが、喜 生さんや父母の活動を支えるアシスタントがいっぱいいて、少しも淋しくなかった。と ころが、息子さんには週二回、シッターさんが来るだけ。毎日、母親がいるにこしたこ とはない。その上、オフィスに出勤しなければできない仕事でもない。家にいても、電話やFA Xのやりとりで、仕事のスケジュール調整はできる。仕事の取材、打ちあわせは外ですばいいし、相手のある仕事や講演は出かけていくわけだから、オフィス空間とコピ 1、FAX、電話などの機器があればいい。あえてオフィスを別に構える必要はないと 思うようになった。たまたま、堤江実さん(後で紹介している)がホームオフィスにして、すっきりと快 適に暮らしているという話を聞いて、ホームオフィスに住み替えることを決意した。 ところが二六坪の住まいには、オフィスにある資料などを収納する場所がない。思いあまっていたとき、たまたま現在のマンションが築後二五年になり、マンション全体の 親 リニューアルがなされることになった。タキさんはこの機を生かそうと思いたった。母シヅメさんが同じマンションにおひと りで、タキさんのところより一一坪も広い三七坪のところに住んでいることから、建物 のリニューアルを機に母娘の住まいを交換しようと提案したのだ。 この提案に九七歳の母シヅエさんは、「この年で引っ越しをすることは「死ね"ということなの? 四~五日、考えさせてください」と答えた。タキさんは自分の都合ばか り考えて、母に残酷なことをいってしまったのではないかと心がいたみ、悔いた。ところが、さすがシツエさんである。 亡くなったパパ (政治家の加藤勘十氏)との思い出のものに囲まれているだけではよ くない、心の洗濯をしてすっきりしてもいいのではないか、まして娘のタキさんがハッ ピーで、タキさんの夫の雅之さんもハッピーで、孫の彰さんがそれ以上にハッピーなら 全部ハッピーずくめだから、よろしい、承諾しましょうと、快い返事が戻ってきた。マンションのリニューアルと同時に、建築家の夫、雅之さんが、タキさんのホームオ フィスになるようにと改造設計をした。タキさんの条件は、どうしても保存しておきたい書類、データの収納庫と、買物時間 の節約のために買いだめした日用雑貨品などを収納するスペースを広くしてもらうこと だけで、あとは一切口出しはしなかった。もっとも、夫婦は設計に着手する前に互いの生活スタイルを話しあい、個人の空間を 尊重して、邪魔しないことを確認していた。それは夫婦が一つずつ、個々の仕事部屋兼寝室をもつことであり、子供も自分で一部屋をもつことであった。 私はこの本を書くために三十数人の方を取材し、実際に住まい方を見せてもらい、学ぶものが多かった。それとここ十数年、毎年ドイツやフランスの老人ホーム、高齢カップルやシングルの住まいを定点観察して得た結果、私は50歳からの究極の住まいは、1・L・DKと結論を出した。「私が主宰し、高齢化時代に心身とも健康で自立した生活をめざす活動をしているオパール・ネットワークの研究会でも、1・L・DKを基本として提案している。この1・L・DKは、夫婦二人を基準に考えたものである。広さは20坪は最低ほしい。ドイツの中の上くらいの老人ホームの広さがほぼ19坪から20坪、もう少し高級老人ホームになると、二三~二四坪のところもある。私も二三~二四坪あったら、理想的だと思っている。この坪数があれば、夫婦の寝室のほかに、趣味室とか書斎がもう一部屋もてるからだ。日本の高級老人ホームもいくつか見て歩いたが、ほとんど一〇~一三坪。住み心地はよくないという声が大半だ。やはり二〇坪あると、ゆとりがあり、互いに、友人、仲間たちとの交流も楽しめるのではないかと思う。私は五0からの生き方には、衣・食・住・遊・交・文・動に長けることが大事だと思っている。そのためにはただ生きるのでなく、創る、食べる、集う、つきあう、学ぶ、飲む、語る、ふれあうことができる、多機能空間が欠かせない。これはオパール・ハウスの理念でもある。そしてどういう形態であろうとも、個の生活が守られる気くばりが住まいの中にあることだ。子供が独立したら、夫婦それぞれの個を大切に、楽しく、ゆとりをもって、豊かに暮らせる質の高い空間でなければならない。さらに、もしも夫婦のどちらかが病気とか、身体が弱った場合、家庭介護、看護がしやすいように配慮したものでなければならない。それには次の三つを頭に入れておきたい。住みなれたところで、住みやすい環境、設備づくりであること。の加齢することを恐れない。快適に、自立して暮らしていけるライフスタイルと人間関係づくりを心がける。3地域の人々や、友人、仲間と楽しくつきあいながら個の生活が守られること。その基本的要素は、Q安全、の機能、3健康であり、その結果、快適に、心地よく暮らすことができる。そして、スリムに、シンプルに、センスよく、コミュニケーション(交流)、クリエーション(創ること)、カルチャー(文化)の3Cが享受できる空間、場を住まいの中にもつことだと思う。それを最低の条件としておさえていかないと、快適に、楽しく暮らすことはできなもっとも、個人差はあるが、年を重ねていくことを考慮すると、こうした点を考えに入れた住まいが望まれる。

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