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不動産広告の集め方!

2020年3月11日「水曜日」更新の日記

2020-03-11の日記のIMAGE
コンピューターで多くの物件情報
最近は、新築、中古を問わず住まいの情報をたくさん盛り込んだ住宅雑誌が駅などで売られています。これは、大量の情報を一度に得る手段として有効ですから、ぜひ利用したいものです。このほか分譲情報は、分譲業者の新聞広告やパンフレットによることになります。中古住宅や一の市街地の中の土地などは新聞の記事下広告にも出ていますから、注意して見てください。大手業者の中には友の会の制度を設けて、会員に種々の情報を送ってくれるとか、優先販売をする場合もあります。会費無料のものが多いので、情報集めにはいくつもの友の会に加入しておくのむよいでしょう。また、最近の近代化された不動産の取引業界では、一つの地区で一〇社から数百社の優良業者が会員となって、情報センターをつくっています。ここでは、会員である業者がセンターに登録した物件をコンピューターに記憶させ、会員はいつでも他の会員が登録した物件情報を端末機で引き出すことができるようになっています。図面や写真も電送できるようになっていますので、これを利用するのも効果的です。つまり、住まいの情報資料を入手しようと思えば、情報センターの会員業者に依頼して、希望する土地や建物の種類、大きさ、価格、沿線などを設定して端末機で引き出してもらうわけです。こうすれば、一社に依頼するだけで、一〇〇社から数百社がもっている物件情報を知ることができますし、図面や写真も数分間待てば揃えてもらえるので便利です。 「こんな感じになるかと思いますが」と、電卓を見せてくれるHさん。数字を見て驚いた。8万円だったのだ。「えっ!そんなに引っ越しって高いんですか?」青ざめて言うと、Hさんが慌てて言ってくる。「いえいえ、これは正規の値段でして。今回はマンションの一斉入居ですので、この部分とこの部分はサービスなんですよ」と、2万円引いてくれる。それでも予算に合わないので、「もーちょっと何とかなりませんか?昔、赤帽でお願いしたときは1万5000円だったんです。そうだ、そちらのいちばん小さい車でいいんで、何とかなりませんか?」と食い下がるわたし。「それならぶっちゃけて、予算はいくらだったんですか?」「実は、3万円......」と図々しく言ってみた。「う~ん、そうですねぇ、これ以上はわたしの判断で勝手に値下げできないので、上司に電話で確認してみます。ちょっと失礼」と、Hさんは携帯電話で上司に電話をしている。「何とか、0K取れました」と電話を切ったあとHさんが言い、めでたく交渉が成立した。すべきことは、ほかにもあった。今まで家具や電化製品が備え付けてあるアパートだったため、新しく購入しなければならない。まずは家具だ。マンションの近所にある大型家具店へ行って、ダイニングテーブルと椅子4脚、食器棚を買う。全部で20万円と予算より少々高かったのだが、これにはちょっと訳がある。椅子にお金をかけたからだ。長時間座っていても疲れにくいということで、普通の椅子の倍近い値段がかかってしまった。実は、椅子を選ぶときにちょうど疲れていて、その椅子が妙に気に入ってしまったのだ。椅子を4脚にしたのは、友だちが遊びに来ても、家族が増えても大丈夫なようにと考えたからだった。収納がたくさんある食器棚が安く売られていたので、それも買う。これも、家族が増えてもいいように、ある程度大きいものにした。次は電化製品だった。 きっときつい香料や何かが入っているからなのだろう。そのあとは、お決まりのように肌荒れで苦しむ......。そんなわたしでも、この手作りの化粧水は大丈夫だった。「何だか、肌の調子がよくなったような......」そんな気さえしたほどだ。この化粧水を使って5年くらいたつが、肌のトラブルはなく、調子もすこぶるいい。「洗顔石けんは、この4000円のものに代わるものなんてない」手作りの化粧水を使いながらも、しばらくは高い洗顔石けんを愛用していた。しかしある日、本屋さんで雑誌を立ち読みしていたときのこと。「洗顔は台ふきんを洗う石けんで十分」こんなふうに主張する皮附科医の記事があった。「もし本当なら、今使っている洗顔石けんよりもずっと安くなる」そう考えたわたしは、使っていた洗顔石けんがなくなるとすぐ、スーパーにふきんソープを買いに走った。「何だか肌に悪そう......」最初はそう思ったが、おそるおそる使ってみる。すると、今まで使っていた洗顔石けんととくに変わりはない。肌の調子もいいし、もちろん何のトラブルもない。ふきんソープ自体が大きいものなので、惜しまずたっぷりと泡立てて使えるのもうれしかった。ほかにも、シャンプーや洗剤などは、おもにチラシで底値を調べ、それを基準にしてさらに安くなっていれば、そのときを狙って買うことにした。底値を調べるのは簡単だ。1カ月くらい、新聞にはさまってくるチラシを見て、ノートに値段を書き付けていくだけ。そうすると、いちばん安い値段がわかってくる。一見面倒に思えるが、はじめてみると結構楽しかった。慣れてくると、頭にインプットされてくるので、街に出たついでにドラッグストアをのぞくと、買いかそうでないか即時に判断することができる。底値がわかったら、洗剤ならいくら、シャンプーならいくらなど、物によって買う値段を決めておくといい。底値を知ることで、チャンスを逃すことも少なくなり、定価で買うよりもはるかに安く手に入れることができるのだ。ティッシュペーパーは、街や駅で配っているものを当然のようにもらった。ただ、ティッシュペーパーも無料でもらったからといって、今までのようには使わない。節約に目覚める前は、少しの水滴でも汚れでも、何でもかんでもすぐティッシュペーパーを使っていた。今では、常時雑巾や台ふきんを用意しておいて、濡れたり汚れたりしたらふいて、再び洗って使っている。その結果、すぐになくなってしまっていたボックスのティッシュペーパーも、なかなか減ることはない。ここ数年、無料でもらうポケットティッシュだけで十分足りている。 だから外国へ行くと、身長も足の長さも大きさも違うせいか、昇り降りのしづらい階段に出くわす。そして階段を昇ると、そこに思いがけない風景なり空間なりが現われて、感動する。それは高いということではなく、予想もしなかった、あるいは未知のものに「出会う」感動である。だから階段は、「上下の動線」という機能的なことと同時に、Aという空間とBという空間、つまり「異種のものをつなぐ」という意味、心理的機能ももちあわせているのである。そしてAとBの領域の狭間でさまざまな物語が展開する。たとえばヒチコックの映画「めまい」のように。しかしよい面ばかりではなく、しんどい面もある。それは先に述べたように、階段は「足を使う」ものだからである。年を重ねるに従って、最初に目、そして足腰が弱ってくる。水平面を歩くことは、足の裏の刺激になり健康の維持に役立つが、段を昇る動作は膝、腰に負担がかかる。昇るのも大変、そして降りるのはもっと大変であり、すべり落ちるなどの危険を伴う。そうなったらどうするか。これははっきり「階段は止めよう」としかいえない。二階から一階に生活の本拠を移動させる。あるいは平屋、平面に住む。またどうしてめもということなら住宅用エレヴェーターをつける等、根本的な解決の手段が必要となにる。階段がなくても、高い所には昇れる。超高層ビルのスカイラウンジの食事も、旅行で山にも行ける。諦めるのは階段だけ。でも、階段のもつ物語(よさ)も忘れないでいただきたい。【小さなコメント】・危険防止、安全のために、長い階段をまっすぐにつくらないで折り返し、踊り場を設5ける。壁はシンプルにし、絵など飾りすぎない。見とれてすべる危険がある。・カーペットなどすべりやすいものを敷くときには、必ずノン・スリップをつける。また昇り口、降り口に敷物を置かないこと。・楽な上下のために、住宅用エレヴェーターや階段リフトなど、新しい装置が種々出ている。積極的に取りいれよう。・足元を、フットライトをつけるなどして、とくに明るくする。 老いは予想以上に急速にやってくる
いつものように仕事を終え、帰宅した私に一通の封書が届いていた。しばらく会っていない古い友人、稲葉幸子さん(六八歳)からであった。その内容は、三〇年以上、住みなれた自宅を売却し、有料老人ホームに転居したという知らせであった。驚いた。まだ若いのに......どうしたのだろうと、胸が騒いだ。私はオパール・ネットワークを主宰していることから、日頃から。年を重ねていく人の生き方、考え方、暮らし方。に強い関心をもっていた。いまのままではダメ、なにがなんでも、社会ぐるみで、よい方向を探しあてなければ、と全神経を尖らせていた矢先だっただけに、ぜひ、会って、老人ホームをどうして終いの住みかにしたのか、その心情を聞きたいと、電話をし、友人を訪れた。友人の老人ホームは、私がいままでいくつも見てまわった高級老人ホームの中でも、一、二番に入るほど素晴らしく理想的で、高級マンションとなんら変わりはない住まいであった。稲葉さんは戦後をシングルで生きぬいた、いまでいうキャリアウーマンの第一号ともいえる人だ。さまざまな編集分野からマーケティングの世界まで、幅広い仕事をしてきた大先輩である。ともかく、超に超をいくつ重ねても足りないほど、過激な仕事を手がけ、時間と闘いつづけてきた企業戦士でもある。そのハードな仕事の反面、稲葉さんは痴呆の母親の介護をずっと続けてきた。その生き方はけっして半端ではなかったはず。その彼女の心境になにが起こったのか、なにが彼女を老人ホームに走らせたのか、ともかく、興味があった。私は、はやる気持ちを抑えて、彼女に、「ねえ、どうして有料老人ホームを選んだの?」と切りだした。友人は、久しぶりに会ったせいか、それとも、長い間、思いを胸の中にためていたせいか、今日までの経緯を爆発させるように話しはじめた。ある取材のため、当時、時の人ともいわれた著名人六人のインタビューをしたことがあった。朝八時から夜一一時まで続いた。最後の仕事が終わって立ちあがったとき、いきなり、頭の中が真っ白くなり失神してしまった。まわりの騒ぎに気づいたとき、大勢の人に抱きかかえられていた。ストレスの重圧による失神であった。そのときに倒れて痛めた首の骨の障害はいまでも残り、ときどき始まるその痛みは、苦しかった四〇代後半から五〇代の暮らしぶりと重なって心をえぐる、と友人はいう。失神を契機に稲葉さんの人生は変貌していった。四七歳を迎えて間もないころだった。更年期と重なったせいもあり、まずまわりの色が限りなく黒に近い灰色に変わった。稲葉さんの場合、やや病的で、極端な例かもしれないが、リンゴがグレーに見えたり、常に前向きな生き方だったのが、弱気になったり、行動能力が低下していった。このことから、稲葉さんは「老いは想像以上にスピードアップしてやってくる。老後の生き方と住まいは五〇歳からでは遅すぎるくらいで、早ければ早いほどいい」とアドバイスしている。 父母が残してくれた心の遺産
一年前、八五歳の母親を亡くした生活道具デザイナーの曾根眞佐子さんは、いまあら ためて父母が長年にわたって培ってきた隣人愛の大切さを味わっている。二〇年前、いま住んでいる家を母親と曾根さん夫婦の二世帯住宅に大改造した。その とき、四人姉妹の三女として生まれた曾根さんが自然に母親の面倒をみることになっ た。その後、二〇年間は波風もなく、母親と娘夫婦はそれぞれ自立した生活を仲よく、 快適にしてきた。母親が亡くなったとき、東京の真ん中なのに、町内会が一体となり、家族を煩わすこ となく、通夜と葬式、その上、通夜に訪れる弔問客用の料理までつくってくれ、町内会ぐるみで面倒をみてくれた。その結束力とあたたかいやさしさ、行動力は曽根さんを感 動させた。地域愛、隣人愛が身にしみてありがたく、感謝の気持ちがこみあげた。母親を送りだしたあと近所の方々にお礼に行った折、行く先ざきで、「お父さま(三 0年前に故人となっている)にも同じことをしていただきました。当然のことですよ。 お母さまにも同じように親切にしていただいたのだから......」といわれ、地縁のありが たさ、あたたかさ、人情が改めて心にしみた。 「住みなれたところってなんていいのだろう。できることなら一生、ここに住みつづけ よう、そして隣人との交流をしたい」と曽根さんはそのとき決意したという。近所の方々から曽根さんが知らなかった父母の話をいろいろ聞かされ、五〇代半ばを 過ぎたいま、父母の遺してくれた近隣への交流の遺産の大切さを思い知らされたのだ。曽根さんは会社勤めをしていたころ、毎日お弁当をつくって持参した。そのとき母の 分もいっしょに用意しておき、「ちゃんと食べるのよ。昼食抜きは体に悪いから」と、 しっかり手渡して出勤するのが日課だった。夜は仕事で遅くなるので、母ひとりで自分ェ で料理して食べていた。母はそれをきちんと食べているものと思っていたのに、亡くなってからわかったの は、お昼の食事は近所の家でお話しながら、ご馳走になっていたという。曾根さんがつ くった弁当は、あるときは近所のお宅へもっていかれたり、共に分けあったり、夕食に まわされたりしていたようだ。 知っているつもりの母親の日常生活は、娘の曾根さんの知らないことばかりだった。 お弁当をつくっておけば、それを喜んでひとりで食べていたと曽根さんはずっと思い こんでいた。母はひとりで淋しかったのだ。そのことに気づかずにきたことに悔いが残 った。が、母親は夫とともに築いた近所とのつきあいを大切に、近所の人たちに支えら れながら生きていたのだ。そんな父母の遺産を宝物に、曾根さんは父母の愛したこの地域に住みつづけることを 心に誓った。母親が亡くなったあとも、留守にするといえば、庭の草木に水をやってく ださる近所の人がいて、ついでに草むしりまでしておいてくれる人情がいまも生き残っ ている。 限られたスペースを広く、快適に、美しく、センスよく使うためには、まず「切り捨て」から始めることが大切だ。どの道具にもそれぞれの思い出があり、つきあった分、愛着も強くなる。これを思いきって切り捨てるには大決断が必要で、愛着をなくすことに尽きる。あれも、これもと愛着心をもったら、まず、家の中は整理できない。私の場合、自分の生命とも、心の癒ともなっている本箱三つ分をどう整理するか。これは私の生き方にもかかわる大きな問題であった。たまたま部屋の北側に密着して三階建ての住宅が建ち、台所は半分が暗くなり、南北の風が通らなくなった。一時期は、ああ都会生活はなんと自然を拒否してしまうものかと憤慨していたが、都市に住むものの宿命とあきらめ、思いきって北側ベランダの改造を機に細長い物置き棚をつくってもらい、そこへ保存しておきたい本や書類、道具を入れられるようにした。またよく使う本は六畳間にある一間幅、奥行半間の床の間を有効活用。仕切りに吊りスライド式襖戸をして奥三分の二をスライド式吊り本棚に、前面三分の一は床の間として使えるように工夫した。このスライド式吊り本棚は本箱二つ半分収納できるから、知恵をしぼればなんとかなるものだ。次に、衣類の収納が難題だった。洋服ダンスの三つ分と和ダンス一つ分をどう片づけるか......。洋服と和服の着物の二重生活を思いきって断ちきろうかと思ったものの、私の五〇代からの人生設計の中には、和・洋両方をその時々の気分と行く場所によって着分けたい気持ちが強かった。これはゆとり心を味わいたいという気持ちにも反することになり、このぜいたくは手放さないことにした。考えぬいた末、三畳間のベッドルームをつぶしてクローゼット兼納戸に改造することにした。三畳間の三面をクローゼットとし、夏用、冬用を一面ずつ分納しておけば、入れ替えの手間も省ける。そして、一面は和服とセーター、ブラウスの収納にしたため、使い勝手がよくなり、しまい忘れがない。もう一面は半間は出入口、半間はビルトインの食器棚(酒、ワイン関係の食器のみ)というからくりになっている。さらに玄関を含めた一一畳大のDKには、食卓もなんの道具も置かないことにした。

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