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危険負担の条項に留意

2020年3月7日「土曜日」更新の日記

2020-03-07の日記のIMAGE
マイホームを取得するための発賀契約で注意しなければならないことには、面積と売買価格、代金支払方法と時期、所有権引渡し・登記の時期、危険負担、売主の担保責任など、いろいろありますが、中でも危険負担の条項にはとくに留意しなければなりません。建物が類焼したようなとき買主は、いまだ引渡しを受けておらず、また引渡しを受けるべき時期にきていないとしても、その損失をすべて負担し、代金全額を売主に支払う義務を負い、一方、売主は、建物が焼失した以上、引渡しの義務を免れ、損害賠償金を支払うことも必要でない――というのが民法の規定で、これを危険負担の債権者主義といいます。こういうと、あなたは何と不都合なと思われるでしょう。実際、登記や引渡しが済んだあとであれば、買主が責任を負うのは当然でしょうが、建物を手に入れることもできないのに、代金だけは全額支払わされるというのでは、買主にとって、この民法の規定はまことに不都合千万ということになります。そこで、このような民法の規定は、実際問題としては今日の取引慣行にあいませんし、当事者間の公平に反するものだということで、契約条件としては民法の規定とは反対に、売主が危険負担す一るという特約(債務者主義の特約)をするのが、むしろ普通になってきています。このことをぜひ心得ておいてください。なお、業者が自ら売主となって手付金を受けとったときは、それが契約書では違約手付となっていても、買主に不利な場合は無効となり、解約手付として買主が手付金を放棄すれば、契約を解除算できますし、この場合、業者は代金の二割を超える手付金を受領してはならないことになっています(2~5頁参照)。この点もあわせて知っておくべきです。 「1日も早くこの狭いアパートから、広いマンションに移り住みたい」お金の工面もついて、あとは入居の日を待つのみとなった。マンションのことをあれこれ考えていると楽しかった。けれど、引き渡しまで、まだ半年近くもある。「ああ、待ち遠しくて仕方がないなあ......」そんな気持ちをまぎらわせるために、家具や収納などのカタログを見たり、雑貨屋さんをのぞいたり、引っ越しがスムーズになるようにと、不要品の処分をしたりして過ごした。貯金についても、買うもの、支払うものの配分を考える。「早く時間が過ぎてくれないかなあ」ああでもない、こうでもないと考えながら時間をつぶしていく。もう、新しいマンション中心の生活だった。「一日一日とマンションに近づいている。そして、もうすぐこのアパートにさよならできる!」そう考えるだけで幸せだった。そうこうするうちに10月になり、入居手続き会があった。契約を交わしてから、8カ月後のことになる。入居手続き会は、N不動産が指定したビルの一室で行われた。まず、ローンに関する正式な融資契約を結ばなければならない。2月の契約手続き会のあとに、住宅ローンの申請をしたのだが、ここで金額の変更をすることもできるというわけだ。たとえば、ローンの申請をして1500万円借りられると承認されたとすると、そのまま1500万円を借りてもいいし、減額して1200万円にしてもいいということ。わたしは、申請したときの1900万円弱のままでOKと、書類にサインをして実印を押した。 食費を節約する上で大切なのは、できるだけ外食をしないことだ。安くなったとはいえ、1食700円や800円は普通にかかってしまう。確かに自分で作るより安いものも、なかにはある。でも、わたしは「おいしさ」と「健康」にこだわりたい。「健康であってこその節約」そう思って、簡単でもいいから自分で作った。ごはんを炊いて卵と納豆だけでも、「もやしとニラの炒めもの」でもいい。手作りのおいしさを覚えてしまったら、もうやめることができなくなってくるはずだ。「一人暮らしで自炊をしても、無駄にしてしまう食材が増えてしまうんじゃないの?それなら、コンビニでお弁当を買ったほうが、結局は安くすむし」よく、友だちからこう言われる。実際にわたしも、あまり自炊をしていなかったころは、そう信じていた。もちろん、毎日作らなければ、野菜や肉などの生鮮食品は、2、3日もすると傷んでしまう。でも逆に、使い切れる分を買って使い回せば、驚くほど安くすんでしまうということがだんだんわかってきたのだ。スーパーで食材を買うときは、まず「見切り品コーナー」に直行することにした。見切り品とは、賞味期限が切れる直前のもので、「おつとめ品」とも呼ばれている。多少鮮度は落ちるが、わかるかわからない程度だと思う。見切り品は、当然のことだが安い。見切り品でないものと比べると、半額くらいになっているし、なかには4分の1くらいの値段で買えるものも結構ある。そんなわけで、肉や魚、野菜などの生ものは、その日に使い切れる分の見切り品を買うことにした。 入院して何がいちばん滅入るかといえば、それは、「一人でトイレに行けなくなったとき」ではないだろうか。人の手を借りなければできないことはいろいろあるにしても、いわゆる「下の世話」になることぐらい、意気消沈することはない。大袈裟にいえば、「人であることを止めにしてしまった」ような心境になる。元気なときは「生きがい」とか「大事なこと」は他にさまざまあって、排尿排便など、食べれば当然出るものと気にもしていない。が、いったん病気になってみると、このごく基本的な生理的な行為を、「自分一人でできるか否か」が、「生きている」あるいは「人として」という、つきつめた問いになってくる。口から入るほうは、古今東西あらゆる国で、一つの文化にまでなりえていて、どこで何をどのように食べるかを語るのは、いまや一つの知性にもなっている。ところが一方、入ったものは出るのが道理であるはずなのに、スカトロジー(糞尿学)といえば、有名なところではモーツァルトがいるけれど、変わった趣味人的テーマで、通常では「人前では語らない」ことになっている。しかし最近、その行為をする空間である「トイレ」のほうは、「表」に顔を出しはじめている。「公衆便所」のデザイン・コンペティションが開催されたり、有名建築家が設計した二億円の公共トイレが話題になったり、百貨店やレストランなどは、店舗の内装より、いかに美しいトイレをつくるかに力を入れたり、実に堂々と話題の前面に顔を出してい「鳳」「御不浄」「便所」「トイレ」と、使う言葉が変わってくるにつれ、いつの間にかその行為もひっくるめて陽の当たる場所へ出てきた。「ちょっとトイレに行って来ます」とか「おトイレ拝借」とか、何気なく日常会話で使われ、そこに何の違和感ももたない。老若男女「トイレに行く」といっても、別に恥でもなければ何でもない。あまりにも当たり前すぎて、「言葉」として耳にも残らない。けれども少し前までは、とくに女性は大きな声ではいえなかったし、いわなかった。周辺の人に気づかれないようにそっと行動したし、さとられてしまうことに恥ずかしさがあった。英国で、直訳風に「トイレはどこにありますか」と聞いたら、「パウダールームですね」と、やんわりたしなめられたが、日本でももう少し、トイレ一点張りではなく、言葉が豊富でもいいのではないだろうか。化粧室、お手洗、トイレ、と使う言葉が豊富にあると、それによってイメージされる雰囲気も異なり、また空間のあり方や機能までの広がりが出てくると思うからである。昭和三〇年代頃までは、住宅のトイレは汲み取り式やバキューム方式が多かった。縁側の先の北側が便所の位置の定石で、縁側の外に手洗器が釣るされていたり、水をためた石や桶が置かれ柄杓で手に水をかけて洗った。 次に、京子さんが十数年後は現在の会社を退職するわけだから、自分の人生設計をどう組み立てるかについても、きちんと計画し、見つめ直した。十数年先だから、自分のことはなんとかなると思いつつも、いまきちんと、自分のライフプランを見直した上で、母娘が共に生活するいちばんいい方法を考えた。その結果、母親の生活空間は階下、京子さんの生活空間は二階と分離し、共有部分は台所と食堂と浴室のみとした。したがって京子さんの二階部分には寝室に洗面所があり、化粧室にもなっている。トイレは階下まで行かなくてもいいように、自分専用をつくった。浴室を二つにするかどうかは迷ったけれど、母娘であり、そこまで別にすることはない、むしろ浴室を一つにすることで、母親とのスキンシップを深めるようにと配慮し図面のように、京子さんの二階部分は寝室が広く、隣に予備室もあって、独立した京子さん用の住まいとなっている。クローゼットも京子さん専用があり、実に住み心地よくしてある。さていよいよ、古い家の取り壊しという段になって、母娘の衝突がたびたびあった。まず、庭の木には夫の思い出が刻まれていて、母親はあれもこれも残しておきたいと主張する。ところがこれまでの四分の一以下のスペースしか庭にはとれない現実では、母親の意向どおりに移しかえることは不可能。思いきるしか方法はない。京子さんは現状を母親に説明し、どうにか納得してもらった。さらに、道具との別れもあった。これは庭木よりも、母親にはつらいものだった。愛着のある花器や和服などの道具を三分の一に思いきらせるためには、母娘の間にかなりの忍耐と長い話しあいの時間が必要であった。家が新しくなるにあたっては、以前使っていた古い家具や道具との調和がとれにくいことを母親にこんこんと諭し、「思いきりよく、処分してください」としつこいほど頼みこんだ。母親としては断腸の思いであったと思われるが、塗の文机、本箱などは、下の娘さんの家にひきとられて、ほっとしたという。しかも、京子さんはフローリングも柱も床の間の木材も全室、すべて色見本の中で二番目に明度の高い明るい色にしたため、いままで使っていた道具類のシックな黒や茶色が、どの部屋にもマッチしなくなってしまったのだ。 もっと前向きに生きるために
愛甲照子さんはファッションジャーナリストで、オパール・ネットワークの委員でもある。愛甲さんは何冊も新しい雑誌をおこし、育てたベテラン編集者であるが、六〇歳を機 に、フリーのファッションジャーナリストとして活躍している。五七歳になったとき、結婚以来ずっと一緒に暮らしたお姑さんが夫の末弟のところに 同居することになった。夫は長男だったので、当然のように同居していたが、いちばん 気の合う弟さんが家を新築したので、そこへ移り住みたいとお姑さんの方から申し出が あった。お姑さんが住みたいところに住むのがいちばんと、愛甲さん夫妻に異論はなかった。ちょうどそのころ、夫は長年の夢である海の見える家に住み、書斎をもち、そこで仕 事をしたり、釣りをしたりしたいといいだした。愛甲さんは愛甲さんで働いているので、一軒家は煩わしくもあり、夫が海の見えると ころに移り住みたいのなら、自分は気楽なマンションにしてもいいなあと考えるように なった。たまたま近くに立派なマンションが建ちはじめ、入居者を募集しているのを見てなに げなく応募した。便利であり、環境もよいので、相当の倍率があったらしいが、運よく 愛甲さんは入居できることになった。さあ、そうと決まったら、一軒家を売るしかなかった。重要なことが、愛甲さんのマ ンション入居を機に、ばたばたと双方の自由選択と決断で決まっていった。 夫が五六歳のときだった。愛甲さんはまだ仕事をしていたし、夫とともに房総まで行く気にはならず、夫婦が互 いに、住みたいところで、したいように暮らしてもいいのではないかと、迷いはなかった。ひとり息子は学校もあるので、ひとまず母親の愛甲さんとともにマンションに住むこ とになった。休暇には夫のところへ行ったり、それより数年前に愛甲さんが八ヶ岳に建 てた別荘に行ったり、山と海に遊び分けができて満足の態である。 こうして、お姑さんも別居することになり、長年住みなれた一軒家での家族の生活は 解体した。夫は白浜に一三〇坪の土地を買い、二階建ての六〇坪ほどの住まいをつくった。庭も あり、海が眼下に眺められる、最高に夫好みのロケーションである。その家は地元の大工さんや左官屋さんに頼んで建てたので、地元風で、おまけに作業 を通して、地域の人との交流ができるようになった。それは夫の土地にとけこむ賢明な 知恵でもあった。玄関がなく、誰でも自由にテラスから出入りできるつくりになっているから、まるで 民宿みたいに、いろいろな人が出入りしている。それに、野菜がとれたからと届けてく れたり、イキのいい魚がとれたからと届けてくれるなど、いいつきあいができているようだ。まわりの人たちの人情につつまれながら、夫の生活は楽しげに見える。夫は現在、美術ジャーナリストであり、翻訳家でもある。以前は美術雑誌の編集長だ った。そんな関係で、月三~四回は東京に出てくることがあり、そのときは愛甲さんの マンションが拠点となっている。美術展をみて歩いたり、編集者と会って打ちあわせをしたり、友人と会ったり、映画 を二~三本まとめてみたり、白浜にいながら、東京にいるときより東京の文化をたくさ ん吸収しているという。 誰しも、人間らしく、誇らしく、美しく生きたいと願っている。とくに、年を重ねていくにつれ、どう生きていくか、どこに住み、誰と、どんな住まいで暮らしていくかを問い直してみることが大きな課題だ。私は、その人生の問い直しの時が五〇代だと思っている。まだ定年は先のこと、それから人生を考えればいいと思いがちだが、一〇年はあっという間に過ぎていくことを、私は体験で実感している。そして、どう生きるかの基本は、これからどんなことをしたいか、いちばん自分のしたいことをわが意のままに、忠実にしていくことだと思う。その土台となるのが「住まい」であり、住まいを抜きには考えられないほど、住まいはライフスタイルの要となる。そして後半生はとくに、慣れ親しんだ地域に、地縁、知縁を大切にして暮らすのが住みやすい。隣近所の人とあいさつがあり、会話があり、人と店、コト、モノが渾然一体として、身体になじんでいることが大切。新しい地域社会にとけこんでいくのも、五〇代では可能なことだ。いずれにしても、五〇代に入ったら、どこに住むかを含め、住まい方を決めたい。どんな住まいにしたいか、人それぞれ人生設計があるが、まず五〇歳までは子供中心にしてきた生き方、住まい方だったのを、夫婦二人を単位に考えたい。あるいは私のようにシングルだったり、シングルアゲイン族は、自分ひとりを中心に、住みやすく、自分にこだわって生きたいものだ。ひとり暮らしは集合住宅に限る、と私は思っている。そして、五〇歳からはより広く、より美しく、より心地よく、より楽しくを心がけたい。それには、シンプルに、スリムに、センスよくの3Sの生き方、住まい方、暮らし方が望まれる。ここに紹介した一三人の生き方、住まい方、暮らし方は、一三人一三様の人生模様を描いている。夫の定年をおよそ一〇年前に見据えてリフォームした前川君江さん。四〇代で高齢化にすみずみまで対応した住居にした今井通子さん。夫と妻、親と子がもたれあわないで、互いを生かす別居スタイルの愛甲照子さん。同居の親を看取ったあと、両親が残してくれた地縁を遺産とした生き方を選んだ曽根眞佐子さん。仕事の見直し、暮らしの見直しの結果、母と娘で住居を取り替えた加藤タキさん。ありまっねひさ妻の死がくれたもうひとつの人生=シングルライフを豊かに住み替えた有馬恒久さん。子供の巣立ちで、五〇代を再びひとり生き、ホームオフィスに転居した堤江実さん。母娘二人で住むために、親の加齢を配慮した住み直しを考えた加藤和子さん。家を小さく、明るく住み直した島田京子さん。老いを考えて一戸建てを捨て、有料老人ホームを選んだ稲葉幸子さん。仕事を捨てずに、病いで倒れた母を同居しながら介護した山本忍さん、近山恵子さん。四〇代で親子三世代過ごすためシニアハウスに入居を決めた山縣裕文さん夫妻。それぞれいろいろな動機で人生の選択をし、住まいをそれに合わせ生きている人生の達人たちだ。この生き方、住まい方、暮らし方、知恵を手本にして、五〇歳からの人生目標を立て直していただきたいと願っている。

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